昔の写真をみれば、簡単にその時代を振り返ることができます。
懐かしい音楽を聴くと、過去の記憶がよみがえることもありますね。
それが、写真や音楽ではなく「本」であることも。
そのことをじっくりと考えさせてくれる1冊があります。
『本を読むわたし』にみる図書館
マンハッタンのアパートメント、プリッツェルの塩粒の味、初恋の男の子のカシミヤのマフラー。
苦い失敗、もう会えない同級生のこと、ひとりになってしまった日、差別に苦しむ兄の姿・・・
自分に寄り添ってくれた本が記憶のアルバムとなるとき、自分の周りの景色がひとつの物語となります。
それは「わたしが読んだ本」ではなく『本を読むわたし』なのです。
アメリカのニューオーリンズで生まれ、ニューヨークで幼少期を過ごした著者の華恵さんは、6歳のときに東京で暮らすことになります。
友達や学校、自分のことを大好きでいられたニューヨーク、祖父母がいるオクラホマではカルチャーショックを受け、東京に来てからは自身のアイデンティティの問題に直面します。
ニューヨークでも東京でも「しょっちゅう通った」という図書館の様子は、15歳が描く日米図書館の比較文化のようでもあります。
グランマにニューヨークの姿を知って欲しくて、ハーレムの様子が描かれたものやいろんな国の文化や宗教、昔話の本を借りたこと。
大学図書館の「チルドレンズセクション」には、実際には子どもは滅多に来なかったこと。
歩くときは、そ〜っとそ〜っと気をつけたけど、読んだ本を自分で本棚に戻して司書さんに怒られたこと。
ニューヨークで何度も繰り返し借りたお気に入りの絵本と東京で再会して驚いたこと。
日本の図書館で知った「紙芝居」の存在と、優しいきつねの話。
仕事帰りのお母さんと待ち合わせをしたのも、喧嘩した友達と仲直りしたのも図書館でした。
そして、図書館で出会った本の中で繰り返し読むものは買って、近くに”いて”もらうことにします。
どこにいても、どんなときも自分を励まし支えてくれる本。
それらは華恵さんのアルバム代わりとなります。
『本を読むわたし』の感想
華恵さんの思い出は、読み手には少し切ない気持ちを与えますが、彼女にとってその記憶にどのような感情が込められているのかを文章から読み解くことは少し難しいです。
周囲の人とも自分の感情とも適度な距離感があり、その描き方が絶妙で、華恵さんが主人公の小説を読んでいるような気持ちになります。
華恵さんの大切な思い出と結びついた本について書かれた本ですが、それがまた、誰かにとって記憶の一部になりえる本なのだと思うと、それはとても素敵なことだなぁと思います。
本を読むという行為とその姿勢について、とても深く考えさせられる1冊です。
そして、華恵さんの著書を「小学生日記」からあわせて読むと、子どもが読書好きになるか否かは本当に親次第なのだということが分かります。
華恵さん著書からはお母さんが読書家だということや親子で図書館にしょっちゅう行っている様子がうかがえるし、華恵さんだけではなくお兄さんもかなりの読書家だということがわかります。
華恵さんは現在、毎日新聞のWEBサイトで「華恵の本と私の物語」という連載を書かれています。
>>図書館がでてくるエッセイ・ノンフィクションのアーカイブはこちら
この記事は、2016年10月28日にほかサイトで書いた記事の転載です。
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